昭和51年03月16日 朝の御理解
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
御神訓に「神の恵みを人知らず親の心を子知らず。」とあります。神様のお恵みを頂くというよりも、神様のお恵みを知ると言う事が大事です。そこから神恩報謝の心が生まれてきます。神恩報謝の心が生まれてきますから、愈々ご恵みは的確なものに、いわばなって来る訳です親の心を子知らず。まあ本当にそうであります。親がそれこそ千万無量の思いを持って子供の事を思うておっても、子供はそれほどしには考えない。
けれどもその、千万無量の思いに触れたとき、何かの機会にはあ、親が私の事をこんなに思うておってくれるんだと。久留米のある教会の若先生が、大変まあこうどまぐれておられた時代があった。それであるときたまたま、教会に帰ってきてお届け帳を見せて頂いたら、一番初めに必ず息子さんの名前のお届けがしてあった。僕のようなどまぐれもん。僕のような、親の後なんか継ぐもんかと言った様な、僕の名前がお届け帳の一番に、しかも何年かにずうっと、続いておるのを見てから。
それからこれは相すまん事だったと気付かせて頂いて、今日今そこの教会の教会長をなさって、もうお父さんは亡くなられましたけれどもね。だったという先生のお話を聞いた事がございます。ね、親の思いに触れたときに、そのそうしたいうならば潔いという、今日の御理解で言うと桜の花の信心。私は桜の花の信心と言う事を、ぱあっと咲いてぱあっと散るというと、何かいかにもなんですけれども、今日はその桜の花の信心と言う事を潔いと言う事、ね。その散りぎわが綺麗だと、ね。
それこそ離そうと思っても離しきらなかったものでも、ぱあっとこう離していけれる、その潔さが信心には必要だと言う事。同時にまたいわゆる梅の花のような辛抱。信心辛抱、このやはり、二つがどうしてもなからにゃいけん。ね。神の恵みを知るためには、ね。先ず神様のその御恩恵を知ることが先であり、そこから神恩報謝の心が生まれてくる、神恩報謝の心に、これは知り得たものだけに。
そこん所を分かり得たものだけに、そこに有難いの念の湧くものの上に、これは特別に現れてくる御恩恵に浴する事が出来るのです。世界中の氏子におかげはやってあるというおかげなんです。先ず私共が本当に神様の深い御恩恵の中にあるんだなと、分からして貰うてすべてに、神恩報謝の心を現していくこと。信心が解るというのは、そう言う事から分かって来る事だと思う。分からせて貰うから、本当に無碍には出来んなあ。あれもおかげ、これもおかげという風に分かってくる。
分かってくるからその有難いと思う心に、またおかげが限りなく恵まれてくるわけであります。昨日皆さんに聞いて頂いた御理解の中に、鬼の世から神の世へと、これはね鬼の世ち言うてからその、こう角の生えた鬼と言った様なのではなくて、まあ分かりやすくいうならばという風にして、私は弁解しとったんですけれども、昨日研修の時に西岡先生が発表しておる事を聞いて、いややっぱり鬼がほんなこつだなと思うたんです。というのは、親の言う事を聞かん子は、鬼子というと言うというのです。
だからやっぱ親の言う事を聞かんのだから鬼子です、ね。だから教祖様なら教祖様の御教えをね。守らないそしてそのそれを頭だけで、教祖の信心はああだこうだというならば、ひねくり回しておるような、そういう人がおかげを受けるはずはありませんから、ね。そのおかげも受けない鬼子がですよ。如何にマイクの前に立っても如何に拡声器で、なら世界に呼びかけてもです。その鬼の姿を見たらあんた自身がおかげを受けていない事実を見たらです。誰も付いちゃ来るまいと私は思うのです。ね。
やっぱだからあれは、今日の御理解で言うと、親の心子知らずの人達の姿は、やっぱ鬼子だと言う事です。ね。いわゆる神心と親の思いが分り親の思いにそう金光教の信心は、ね。教祖生神金光大神が、ね。みんなもこのようなおかげが受けられるから、金光大神の教えて下さる事を本気で守らせて貰うて、総生神への修行をさせて頂くのが、金光様の御信心なんだと。いわゆる神の心を知って、神の思いに添い奉ろうとするのがそれなんです。生神への道の精進であります。ね。
昨夜は富久信会で大変、まあ熱心に話し合い研修をさせて頂きましたが。昨日の朝の御理解を一遍聞いて頂いて、そしてそのどこをどういう風に皆さんが頂きとめたか、頂いたかと言う様な事を、まあ聞かせて頂いたんですけれども、その私はこれは毎日思うんですけれどもね。確かにこうして皆さんがその、御理解を書き留めておられますがね。それを、もう一遍見てですね、なら今日の御理解の頂き所はどこかと。ね。一言でよいからそこを纏めておかないといけませんですね。
ああいう話もあったこういう話もあった。それをならこういう話も、ああいう話もどこを親先生は、分からせようとし分かってくれと言うて説いておられるかと言う事をです。あの書き留とかんとね、あのそれだけのもう一つ勉強せんと残らないです。後から見て散漫であったならこらどういう意味じゃったじゃろかになってしまうです。御理解何節と言う事は分かります。
それでその御理解何節が、それこそ頂くたんべんに角度が違いますからね、御理解何節を書いとかんといつ御理解何節から出た御理解ですらも分からんのです。それで私はあの昨日は修行生の方達が二、三人出てきておりましたから、丁度あの女の修行生の方が出てきておりましたから、その人がまとめておるのを、一人今日の御理解はこの人はこういうふうに頂き止めとるよと言うて、なら聞いてもらったんです。
みんなああ素晴らしいなあ、頂どころという纏め方が素晴らしいなあと、とまあみんな言うわけですけれども、ね。秋永先生がここで修行しよる人達がその素晴らしいその纏め方をすると。けれどもその言うたり書いたりしてる事と、実際はもう裏腹だと。まあ極端な言葉でいうとざまなかと言った様な言葉で、まあ表現しておりました。けれどもあの言うておる事はね。実際にもし出来ておるとするならです。
私と同じ事になるんです。だからその纏めた時にもう私と同じ、私が如何にもええ方ごたるけれども、まあいうならばね私の信心の、まあ取り柄と言うならばです。ね。今日の御理解でいうならば桜の花のまあ、潔さもあれば梅の花の信心辛抱が、実際欠けておる事を自分で知って、そこの所を一生懸命辛抱すると言う事と。神の恵みを段々分からせて貰うて、日々有難い、神恩報謝の生活が出来ておると言う事と。
親の心が分かって親の心に、本気でそういやそうでなかったと気がついたらもう、その時その場から私は改まっていくと言う様な生き方を身に付けておることが、私の信心の取り柄だと思うんですよ。ですから毎日のご理解を頂いても、勿論神様からヒントを頂いての御理解。同時に私の信心とが一つになって、あのなら今朝なら今朝の御理解になって出てくるわけです。ですからそれを素晴らしい所を書き留めておると言う事がです。その人が信心が出来ておると言う事ではありません。ね。
だからそれに精進だから、研修のたびにねそれを日々、自分のものにして行くと言う事が精進だよという事は、もう、毎日のように修行生にも言っておるわけです。それから後には、御信者の皆さんがこうやって熱心に、朝の御理解をいうなら聴聞して下さるのですから、ただ耳だけが肥えていうならば、人に語るときに語り得なかったなら、耳だけが肥えとることになります。ね。耳だけが極楽行きするかも知れんけれども、ね。身体全体心全体が極楽行きをする事は出来ません。ね。
そういう意味でもです。人に語っていくという意味においてもです。矢張りそのここの修行生のように、ね。二回も三回も例えば御理解を頂いてから、それを収録すると言う事は出来ませんけれども、折角朝頂いたこの御理解を、こう要所要所をまとめて書き留めておられますから、それをまたもう一遍、今日の御理解をじっとこう思うて見てです。今日の御理解のなら頂どころという、一言でも良いから一言にまとめて私はおかれる、今日の御理解は、どこが一番有難く思いましたかち。
私はここでしたと、直ぐに答えられるくらいなものは、なら御信者さんでもなからなきゃいけんのだけれども、実際は出来ていないのに驚くくらいです。今日のご理解を頂いてです。どこを頂きとめたかと問われたと思うて、一つあの書いてみてごらんなさい。やっぱそこに時間が相当かかるです。頂き止めとりゃいろんな事を一言纏めて、もう一遍思い出させていただいて、初めてあの矢張り予習、復習と申しますか、ね。が矢張り御理解を頂くにおいてもいるんだと言う事が分かります。
赤色に水色を混ぜるとどんな色になりますかね。紫は何色ですか。あ紫じゃろやっぱ。今日私はそういう色を頂くんですよ。あの赤色とですね、水色をこれは確かにこれは紫だなと。今日私が申しますのは安心。御道の信心に限らんけれども、宗教は仏教なんかでも安心立命と言う事を申します。これも大変厳しいものでしょうね安心立命。ただ安心のおかげというのとは、もっと深さがあると思います。けども本当は矢張り本当の安心を求めると言う事がです。
例えばなら死生の安心ぎりぎりの所。ね。と言う様な心を開いていくと言う事が信心の眼目なんです。それにはね矢張り赤と水色が一つにならなきゃいけんです。いうならば桜の花の信心と梅の花の信心が一つにならなければ、本当の安心と言う事には、ならないと私は思うです。赤と言う事は勿論信心の熱情です。水と言う事はどこまでも冷静です。ね。いうならば今日の御理解をじっと自分の、いうならば頭でです、ね。いうなら教学すると言うてもいいでしょう。
冷静に頂いた御教えを整理すると言うてもいいでしょう。朝参りの熱情と御理解を頂く、そしてそれを冷静な心でです。ね。それこそ水のような心でです、ね。火のような熱情とを一つになった時にです。それが段々行の上に現れてくる生き方をして行くうちに、安心のおかげというものは頂ける。所謂紫の色を、ここでは安心と頂きますから。安心のおかげを頂くためには、熱情というならばそういう冷静さというものが要るのです。ですから朝参りの熱情にかけて、ならこの御理解を聴聞する。
そしてそれを自分のものにして行くと言った様な冷静さとがいうならば、ね。神徳学問と教学とが一つになって行くと言った様な、いわゆる教学のいうなら実践が出来て行くと言う様な所から生まれてくるのが私は安心だと思う。昨日最後石井さんがこういう発表をしてました。もう本当に私はもうそれこそ頂き終わってから素晴らしいと言うてから、もうそれこそ声をかけるようにありましたんですけれどもね。こう言う事を言うんです。今日の親先生の御理解を頂いて。
例えば先日は野っぱらに何か遊びに、社員の方達をみんな連れて行ったち言う。でそこの社員の方達を前にしてお話をしてそれからあの天地、青空に向かって御祈念をしたち。もうそれこそ一生懸命に天津祝詞と、大祓いを上げて後ろでくすくす笑う奴も、どうか言いよる奴もある。けれど仕舞には水打ったように、自分の大祓いに聞き入ったち。もうこの元気な心がいるんです。
この前の十三日会のときにあの声を大にして、自分が作ってきたそれこそまあ、なんていうでしょうかね、あの勝ってくるぞと勇ましくの節に合わせて、自分の作った合楽のいうなら合楽精神とでもいうような、そのまあ素晴らしいあの歌詞でしたね。皆さんも聞かれた通りでした。あれはあれだけ八十人からおるなかで、歌いますから聞いて下さいと言うてもうとてもあの勇気です信心は。もうそれこそ声高らかにしかもね、何番までかんとを、二編どおり歌ったでしょう。もう愈々感心しました。ね。
そういう例えば潔さね。普通はそれこそこうもう自分なもう、つまらんとか普通のときだったらこう隅のほうにばっかりおると言った様なものがあるかと思うと、非常に冷静にね。いわゆる教学的な大体は教学肌の人ですね、それをまた実践家です。だからあの元気な心が生まれてくるんだと私は思うです。なかに例えばあのサーカスのいわゆる、空中サーカスです、ね。こちらの命綱から向こうの命綱に飛び移る。人間と人間が途中いわゆる飛行する。飛び通うね。
あれをね例えば数学的とか物理的な、いわば事で説明をすれば説明ができるけれども、そういう説明が出来る人が、そんなら飛んでみれというたら、飛べるものじゃないというのです。それこそ小さい時から鍛えられるにも鍛えて、命がけの稽古をしていうならばです。向こうとこっちとの一つの呼吸というものがね、ぴったり合った時にもう綱を握っておるときが何秒、空中で飛んでおるときが何秒という風に、計算してじゃなかちゅうわけ。もう呼吸一つでいや呼吸がもう乱れたら。
それこそ下に転落すると言った様な事にもなるのだけれども、あの呼吸一つが、ね。あの離れ技をやってのけるんだと。私共と神様との間でも、やっぱり同じでどんなに、理論的に分かった所でです。ね。稽古するものには勝たん。稽古して神様と自分との間の呼吸、その呼吸をね。乱さず、呼吸を会得すると言う所に、大祓い心行の値打ちがあるという意味の事を話しました。そうですよね、大祓い心行を愈々、一生懸命奏上させて頂いておるとです。もうそれこそ人、神一体という境地が生まれてくるのです。
呼吸が合うのです。それがたまらんのです。それが有難いのです。あいまった信心。例えば皆さんが、ね。こうして朝の御祈念にお参りをしてくるというからには、熱情をかけなければ出来る事じゃありません。ならその熱情をかけて参ったから、もうそれでよいというのじゃなくてなら、こうして頂く御理解を、ね。聴聞される。だから聴聞したのがです、はぁ有難かったというて言うただけであったら、耳が肥えただけです。
それを帰って家内にも又は主人にも家族のものにでも「今日はこういう有難い御理解を頂いたよ。」と、纏めてお話が出来るくらいな、又は人にもそれが語れるくらいな、私は勉強をさせて頂いて初めて、ね。おかげを頂く今日のまあ御理解から申しますとです。神の恵みを知る事になり、ね。親の心を分かる事になり。神の恵みに神恩報謝の有難いという心が湧いてくるなら、親の思いを分からせて貰うて、親の思いに沿うていく孝行者としてのおかげが頂かれるであろう、ね。
桜の花のいうならば潔さと。信心辛抱し抜かせて頂く、いうならば赤い熱情と、ね。水のような冷静さとが一つになった時に、始めて紫の色が生じるように、安心のおかげがいただけるという信心とは、そういう今日私が皆さんにきいて頂いたような内容から、安心のおかげと言う事になってくると思うです。それが欠けておったのでは私は本当の事にはならない。私共と神様との間のいうならば、ね。論理的な事も大事ですけれども、それより実際に稽古をさせて貰うて、ね。
それこそ離れ技的なおかげの頂けれるおかげを頂く事のためにはです。私共と神様との交流が要ると言う事。私共がどうでもこれだけは、それこそ潔く捨てなければならないというもの。離さなければならないというもの。昨日原さん所のお父さんの帰幽日でした。で、毎月あの帰幽日には、まあお父さんの好きなものの一つもお供えして、まああの玉串の一つでも上げられるように、こちらでも準備しとくんです。
昨日もやっぱりそのそれでしたが、神様に私がお願いさせて貰いよりましたらね、お父さんがえらい元気な生き生きとした心でね、こうやって足踏みをしている。手をこうこやって右左に振りながらね。前後に振りながら、ね。これが私のいうならば、生前の信心でしたと。足はその地についとるけれども、全然前に進まなかったと言うのです。手だけばこう出しよる。信心は進めようとせずに、おかげのほうだけば頂きたいというて、まあ何十年間お日参りをしたというわけなんです。
所がおかげを頂いて魂の世界に入らせて頂いたおかげでです。もう手のほうは全然もう出さない。ね。もう出す必要がなくなった。ね。いうならば第一肉体がないですからいわゆる、五感というものがないですから、ね。見たいとか食べたいとかにおいたいとか、ね。肌に触って貰いたいとか、ね。口で味わうとかと言った様なものは、もう皆無です。無くなった。ただあるものは心の世界だけなんだ。魂の世界だけなんだ。
だから魂の世界でおかげを頂くためには、日々の御教えをやっぱ、ここで頂いておるわけです。頂いて足を今度は進んでいく以外にはないという意味の事を頂きました。ね。そこでならこれはもう皆さんがです、ね。ならそういうならこの世では、ただ味見状態で手足が出とったと言った様な所からです。私は信心の熱情は出けてもです。ね、おかげ頂かんなんから、毎朝熱情かけて参ってくるけれども、なら信心を本気で頂こうとする意欲に欠けておる皆が、欠けておるのじゃなかろうかという風に思うのです。ね。
そこになら信心をどのようにして頂くかという事は、矢張り聴聞以外にないです。ね。いうならば天地の道理を分からせてもらう。天地のいうならば法則を体得して、その法則に従うた生き方を身に付けていくと言う事が信心の稽古です。ね。その稽古しながらです。矢張りならおかげ頂かねばならん所は、手も出してもいいでしょうけれども、そこん所があいまって行って、初めて安心のおかげです、ね。
ここ二、三日申しておりますようにです。信心しておれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげのほうが多いと。知ったおかげより知らぬおかげのほうが多いという、多いほうのおかげに段々、気付かせて頂くようになって、愈々所謂、金光大神の世界にも住むことが出来るようなおかげが頂けるのです。これがあいまって行かなければ駄目だと言う事ですね。
どうぞ。